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タグ:ガッチャマンクラウズ ( 10 ) タグの人気記事

アニメ『ガッチャマンクラウズ 最終話(12話)』 感想

ガッチャマンクラウズ、最終回。

以下、最終話ネタバレ。
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by Trial-6 | 2013-09-28 15:15 | 作品・感想

アニメ『ガッチャマンクラウズ 11話』 感想

まさか、まだO・Dが変身しないなんて!

今回の総集編は良かったな。各キャラごとに、本編を振り返りながらの心情吐露コメンタリー形式。本編のおさらいに加えてキャラの補完も兼ねているので、新参者もキャラが掴みやすくなるので続きから見やすい。といっても、次が最終話だけど!

この手法使えば、本編でのキャラ描写に関して必要以上に説明過多なのを避けれるという利点があるような気がする。テレビ的にというか、読解力無い層向けに合わせてキャラの心情描写をクドくやってしまうと、本編のシナリオにおけるスマートさが失われてしまうよね。その点を、こういう形で番外編で補完してより分かりやすくするというのは結構合理的で良い。総集編がちょっとしたファンブックになっているみたいな感じ。ただ、それでも主人公であるはじめちゃんの心情吐露だけは無いのが良いよね。やはり主人公だけは行動で示して欲しい所。

割とあっさり累君がギャラクターを取り返したと思ったら、まさかの裏目に。ベルクカッツェ強すぎる!!

今回の総理大臣のエピソードで浮き彫りになったのは菅山総理のヒーロー性。菅山個人がヒーローでは無く、あくまで"総理”という役職のヒーロー性。今、総理は国民からあんまり信頼されていない上に、菅山本人もあまり信頼していないので、まともにヒーローとして機能していない。ただ、総理というポストのポテンシャル自体は、言わずもがな日本最強であるはずだ。ただ、この強さって制度的というかシステムの強さなんだよね。それ故に、ギャラクターと同じく乗っ取りが可能である脆弱性が実は存在している。今回、総理としての発言力をそのままベルクカッツェに奪われてしまった訳だ。

ただ、これが可能である以上、ギャラクターも使えないという・・・。残り1話、どうやってまとめきるのか凄い気になる。まぁ、原罪たるベルクカッツェが消滅しないだろうってのは予想できるんだけども・・・。
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by Trial-6 | 2013-09-26 13:50 | 作品・感想

O・Dはキリストか(ガッチャマンクラウズ)

O・Dについて何を表現しているのか?とか、ストーリー上における役割とは何か?について考察してきた。しかし、ヒーローとしてのO・Dについて考察することを忘れていた事に気付いた。

というのも、O・Dはまだ一度も変身していないからというのもあるんだけど。故に、以下はまだ登場していないという1点のみを論拠に、無いものを無い故に想像するという無茶な考察になる。

ガッチャマンのメンバーはそれぞれがヒーローの類型であるという点について述べた。では、O・Dはどれに分類されるのだろうか。まだ登場していないヒーローの類型にO・Dのヒーロー性は隠されているのでは無いかと考えた。そこで、ヒーロー・オブ・ヒーローであるキリストの存在が浮かび上がる。キリスト型のヒーローがまだ登場していないのだ。

ジーザスの特徴は、受難であると考える。ジーザスは人類の罪を背負って磔刑にされたと説明される。この、他人の罪を背負う、引き受ける姿こそヒーローの姿の本質であり究極でもある。故に、ジーザスはヒーローなのである。そのヒーローとしての本質は、蘇生とか、奇跡とかはには無く、受難こそが本質なのだ。

また表現においての話だが、教会や十字架を用いてジーザスを象徴的にヒーローに重ねることで、ヒーローが悪人を罰する事についての欺瞞性を超越させる演出等もある。それくらいにジーザスは最早ヒーローとして絶対性を持っている。

さらに、ベルクカッツェが人類の愚かさ(悪)を象徴しているキャラクターであることも思い出してみると、より根源的な悪(原罪)に立ち向かったヒーローであるジーザスは、ベルクカッツェに対してもより強度を持ったヒーローとして機能するのでは無いかという事だ。

このヒーローオブヒーローズがまだ登場してない。ということは、O・Dこそジーザス的なヒーローとして描かれるのでは無いだろうかという予想だ。現状、ヒーローとしてのO・Dの能力は大量破壊兵器的な性質が語られている。周囲に滅びをもたらす力である。しかし、それに加えてO・Dが変身した時、その行為は自己犠牲(受難)的な行為となるのでは無いだろうかと考えるのである。以上。


※ちなみに、公式サイトを見てみるとO・Dの変身後のGスーツデザインと能力がネタバレ公開されている。Gスーツは奇しくも天使的なデザインである。このデザインにおける若干のキリスト教的要素は、もしかしたら予想があたっているのでは無いかという若干の期待を持たせてくれる。
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by Trial-6 | 2013-09-26 00:11 | 雑記

アニメ『ガッチャマンクラウズ #8~#10』 感想

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遂にジョーさん覚醒!!やっぱ、ジョーさんが一番アツい。年代的に近いせいもあるだろうけど、ジョーさんの格好良さはストレートに刺さる。

格好付けた一匹狼のハードボイルドなジョーさん(これはこれで格好良い)

ベルクカッツェにボコられてイジケてヒーローに白けたジョーさん(どーせヒーローに何かなれねーよ。強くなきゃ、格好良くなきゃヒーローじゃないやい。)

一周回って吹っ切れた熱血ジョーさん。ロケットパンチ!!

ジョーさんが吹っ切れて変身するシーンだけでも最高だった。一人いじけてサボってタバコ吸おうとするんだけどライターが着火しないジョーさん・・・・が、仲間からの熱いメッセージを受けて、ジョーさんの魂に再び炎が灯った時、タバコがボッと自然着火するあの場面の演出は文句無しに熱い。

職場のみんなが見てる前で、ついに仮面を脱ぎ捨てて変身するあのシーン。"燃え要素”を凝縮したキャラだけある。今度こそジョーさんはベルクカッツェにどんだけボコボコにされても、絶対に折れないはずだ。フェニックス!!

・・・・そんな10話でした。ついでにパイパイとうつつちゃんも吹っ切れてたけどジョーさんのせいで霞んでしもうたね。残り二話。やっぱ次回はベルクカッツェと対決なんでしょうか。

ついでに、ジョーさんもまた累君と同じ様にこれまで仮面を被っていた事に気付いた。誰よりもヒーローに憧れていて、でもやっぱりどこか正義のヒーローって事に対して斜に構えていたからこそ、ああいう一匹狼系だったのかなと。普段の職場では完全に仮面被ったキャラだったし。そんなジョーさんが仮面を脱いで、真に熱血ヒーローキャラに変身するからこそのカタルシスだったのかと逆算的に。

あと残ったのはO・Dだけ。O・Dは設定と死亡フラグ的に基地で変身して基地ごとJJロビンソンふっ飛ばしてベルクカッツェ含むガッチャマン達の能力を消すくらいしかストーリー上の使い所無くないか?と思ったが、この全員覚醒の流れでO・Dだけ死ぬってのも中々考えにくくはあるんだよな。全力で死亡フラグは立てまくってるんだけども。まぁ、変身=O・D死亡って訳じゃないなら別に問題無いのかな。

ここにきて最後は暴力だ!でベルクカッツェをボコボコにして終了ってのは無いだろうし、ベルクカッツェが悪意の象徴な以上、ベルクカッツェが懐柔されたりって流れも無いだろうし。となると、やっぱりガッチャマンシステム破壊してお終いは一番ありそうな線なのは間違い無いかなと。予想。

ギャラクターがインターネットの象徴な以上、どんだけダメージがあってもギャラクターは消滅しないと思うのよね。となると累君の仕事としては、総裁Xを取り戻して、再びギャラクターで善意をかき集めるくらいしか無さそう。確かに悪用はされたけど、でも俺の才能はこれなんだし、それでも俺はこれをやるんだよ!みたいな。技術者としての精神が描かれたりするのかなー。悪用された事を認識してショックを受けて自死しようとする総裁Xを累くんが止めたりとか。ベタだけど。

あと、ガッチャマンPR作戦のガッちゃんねるはあれ単発で終わったとは思えないのよ。まだPR作戦は続いていて、最後にこれまで撒いてきたPR作戦が開花するみたいな流れになるんじゃないかなと。

ガッチャマンPR作戦の内容って、ガッチャマンの公表と後は正体の暴露がメインだったと思う。自分たちは正義の味方ですとか、こうしろ、ああしろとかは一切主張してないし。ベルクカッツェについての警告もふわっとしてたし。あれが結局どういう意味を持つのかというと、ガッチャマンという偶像としてのヒーローの破壊だったんじゃないかなと。

ヒーローは不要だっていう理念は、ギャラクターの理念として散々語られてたけど実際の所、あのヒーローという虚像が大衆一人一人の意識を低下させるという主張自体は間違って無いと思うし、実際この作品のテーマだと思う。クラウズはそれを体現しようとしたけど、ヒーローとしてのパワーに手を出して失敗したわけなんだし。理想としては何ら間違っていない。つまりは、これに対しての一ノ瀬はじめなりのアプローチが、ガッチャマンPR作戦なんじゃないかと。

人々が頼ってしまうヒーローってどうしても等身大の人間では駄目だと思うのよ。神秘性(マスク、匿名性)があってこそ虚像としてのヒーローは成立する。自分より優れた何かだからこそ頼ってしまうわけで、等身大の自分と似たような奴なら頼らないでしょ?

ヒーローはいるんじゃないのか?そういう市民の期待感をガッチャマンの存在の公表という形で叶えた上で、その中身まで暴露する。ヒーローの正体が、ガキとオカマとパンダと分かって同じようにこいつらに頼っておけば大丈夫と思えるだろうか?

オマケに、ベルクカッツェという不安は煽っておきながら、勝てるかどうか分からん宣言。これって、要はあまり人任せで頼ってくれるなよという宣言じゃないのだろうか。

一方で、実名公表という形で逃げも隠れもしない姿勢も同時に示してもいる。ヒーローとしてではなく、あくまで等身大の一個人として。こうした姿勢を発信していき、感化させる事がはじめちゃんなりのベルクカッツェへの対抗策だったのかなと。あくまで個人的な解釈と予想の範疇を出ない話なんだけどね。
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by Trial-6 | 2013-09-21 02:34 | 作品・感想

ガッチャマンクラウズ 総括 の捕捉

指摘があり、もうちょっと掘り下げれそうな点に気付いたので捕捉。

社会のアップデートという物は、構造的アップデート民度的アップデートの2つに分けることが出来る。

人間がより便利により楽しくを本能的に求めるので、技術面でのアップデートは不可避であるといって良い。技術面でのアップデートは、社会の構造的アップデートへと繋がる。つまりは、社会は構造的アップデートに関しては個人が望む望まぬに関わらず自然に達成されてしまうのだ。言い換えれば、一人の天才(ヒーロー)によって達成される領域であると言っていい。

①人類の愚かしさと向かいあうこと無く、社会のアップデートは出来ない。

これを踏まえると、①はより正確には
『起きるべくして起こる社会の構造的アップデートに対して、民度的アップデートが伴わないと激しい痛みを伴う』という表現で表す事ができる。

つまり、累くんが作らずとも、GALAX的な物は出現するのだ。累くんの見込み違いとしては、社会の構造的アップデート=民度的アップデートと捉えてしまった点にあるだろう。

累くんは、GALAXを作った事で(技術的アップデート)で、社会の(構造的+民度的)アップデートが達成されると考えたが、実際には構造的なアップデートのみが達成されてしまい、民度的アップデートは伴わなかった点に誤算があったという構図だ。

民度的アップデートに関しては、それぞれが痛み(ベルク・カッツェ)と向き合い成長し、達成されるしかない。これに関しては、誰か肩代わり出来る問題ではないのだ。つまりは、ヒーローが解決できる問題ではない。

と、書けばやはり累くんは、ヒーロー不要を唱えながらも技術的アップデートという一種ヒーロー的なアプローチで社会をアップデートしようとしていた構図がより明確になるのでは無いだろうか。


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by Trial-6 | 2013-08-28 18:39 | 雑記

ガッチャマンクラウズ 総括

メインのメッセージは以下の2点に要約されるのでは無いだろうか。

①人類の愚かしさと向かいあうこと無く、社会のアップデートは出来ない。
②『一ノ瀬はじめ』であることは、強いが、難しい。


①に関して、人類の愚かしさとはベルク・カッツェが象徴する物である。作中においてのキーアイテムである手帳や、GALAX(SNS的システム)の出現は心の可視化を象徴している。社会のアップデートに従って、こうした人間の心にまで光が当たるような時代へと突入した。心の可視化とは、イコール、愚かさの顕在化であり、愚かさから目を背けて来た欺瞞の顕在化でもある。これらの顕在化こそ、ベルク・カッツェの出現が象徴するものでは無いだろうか。

作中においては、ベルク・カッツェと累くんの出会いがGALAXの誕生へと繋がり、やがてベルク・カッツェは暴走を始める。これは、累くんが愚かしさと対面し、それを乗り越える(社会をアップデートする)事を志しGALAXというシステムを構築するも、GALAXの誕生で余計に愚かしさから逃れられないという事実が顕在化してしまったという事を象徴しているのでは無いだろうか。

顕在化したむき出しの愚かさは、人々の争いと衝突を加速させる。愚かさと向き合う事なしに社会をアップデートする事は、こうした万人が万人と闘争する可能性を開く行為でもあるのだ。言い換えれば、万人がベルク・カッツェと向き合う事を求められているのだ。

②に関して、作中において一ノ瀬はじめは唯一ベルク・カッツェと向き合える強度を持った人物であることが示されている。一ノ瀬はじめ的な強さとは、偏見に囚われず素直に本質を捉える力と、割り切るべき部分は割りきる前向きな考え方に集約される。愚かしさは愚かしさとして捉え、前向きに出来る所から改善に当たるのだ。しかし、この在り方は理想的ではあるものの常人には難しいという事は、作中でも何度も示される。守りに入ってしまう小賢しさが邪魔をするのだ。それ故に、当初一ノ瀬はじめは一切守りに入らない白痴的なキャラクターに見えるが、実際の所、小賢しさを超えたクレバーさの現れであることが判明する。

一ノ瀬はじめは何故そのスタイルを明確に他者に説明しないのかという事についても考えてみよう。それは不親切な態度であり、言っても分からん奴には分からんという一種の諦念にも映る。しかし、自身の行動の合理性を徹底的に説明するという事は、他者を論破する事に等しく結局の所、それは他者への攻撃に等しい事を考えれば、あくまで行動として示すしかない。過度な理解を強いるという行為自体に一種の暴力性を帯びるのだ。実際の所は、大した説明をしなくても一ノ瀬はじめという存在は欺瞞を浮かび上がらせる機能を有してしまっている。

またこの事から、一ノ瀬はじめとしての主体的な正義とは、困っている人がいれば、手を差し伸べる。差し伸べた手が相手にとって不要であるなら引っ込めるという形になる。これが全てである。これは、限りなく等身大で素朴な行為である故に、一切の欺瞞の絡む余地が無いのだ。

全ての市民が、一ノ瀬はじめ的な強さを体得する為にはどうしたら良いだろうか。それは、結局のところ、個々の人間がそれぞれ自分で考えて行動し至るしか道は無いのだ。社会のアップデートへの道は遠い。


しかし、ベルク・カッツェの顕在化自体は悪くない現象だとも考える。なぜなら一ノ瀬はじめ的なクレバーさを有していない人々でも簡単にベルク・カッツェの存在を認識出来るからだ。ベルク・カッツェとの対決は痛みを伴うだろうが、人類にとっての成長に為の通過儀礼でもあるのだ。それ故に、恐ろしいという理由でベルク・カッツェから目を背けさせる行為を良しとはしないのである。


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by Trial-6 | 2013-08-28 15:23 | 作品・感想

キャラ考察 その2(ガッチャマンクラウズ)

O・D(オー・ディー)
O・Dのオカマキャラに関して考えてみよう。

ガッチャマンクラウズには広義のオカマキャラが3名もいる。O・Dと、男の娘である累くんと、人外でそもそも性別不詳なベルク・カッツェだ。少なくともO・Dと累くんは男性である。

この2名を比較した時に、大きく異なるのは累くんが、外見的に女性化しているのに対して、O・Dは内面的な女性化であるという点に注目したい。累くんに関しては、外見的に女性化することで一種の公共性(中立性)を獲得しようとしているのでは無いかと述べた。O・Dの場合は、それが内面化されている。O・Dが内面的な中立性を獲得している点に関しては、ガッチャマンメンバーのウチ誰よりも早くはじめちゃんのキャラクターに適合した事や、チーム内での緩衝材として機能している事などから、作中でも性格的に包容力のある存在として描写されているのが分かる。

そうした点では、はじめちゃんに近いとも言えるし、ベルク・カッツェに限りなく近いとも言える。しかし、その包括性は、能動的に働いた時その純粋さ故により辛辣で残酷性を帯びるのでは無いだろうか。あらゆる物を受け止める能力は、能動的に働いた時にあらゆる欺瞞を許さない辛辣な姿勢へと変わるという点は、はじめちゃんやベルク・カッツェに共通する性質でもある。

故にO・Dは過度に他のメンバーへ干渉をしない。あくまで、そっと後押しして見守るだけである。O・Dが女性では無く、敢えて男性である点は、一つには累くんとの対比があるだろう。もう一つは、はじめちゃんとの対比があるのでは無いだろうか。

O・Dは男性である故に、能動的に働く際のアプローチがどうしても男性的になってしまうのだ。それ故にはじめちゃんにおいては、適度に使い分けられる辛辣さが、そのままストレートに発揮されてしまう。O・Dがガッチャマンとしての変身を禁じられているのも、そうした点にこそ真の理由はあるのでは無いだろうか。

パイマン その2
パイマンが、人外な理由に関して。

パイマンが体現している物に関しては、先に述べた通りである。パイマンは、過度に性質が強調されたキャラクターである。その強調故に、コミカルに描かれているが実質これはホラー的な要素も含んでいるとも言える。組織に骨の髄まで帰属してしまったが故に、一切の主体性を失ってしまったという悲劇だ。これを人間でやってしまうと、悲劇的側面が強調されすぎてしまう故に、パイマンはパンダもどきの愛らしい人外キャラクターなのでは無いだろうか。

パイマンは同時に、性別すら不明である。パイマンの場合は、中性的というよりも、主体性が無いので、性別の設定すら不要という見方が正しい気がする。この作品において、性別の在り方が正義の在り方に密接に関係している事を考えると、パイマンには個人的な正義の在り方すら存在していないと言える。

ガッチャマンスーツの形態も、乗り物系でメカに近い。組織の部品でしかない点を暗示していると考えるのは穿った見方過ぎるだろうか。

うつつ
うつつちゃんに関しては、先に述べた通り、ガラスの十代的なアイデンティティ問題というのが本質であるように感じる。自分を嫌い、他人を拒絶している。自分の力が他人を傷つける事を恐れているのだ。

うつつちゃんに関しては、社会にどうコミットするかという、どう正義を行使するかという問題の前段階に位置しており、関わらない事が正義という引きこもり的なキャラクターとも言える。しかし、はじめちゃんとの出会いで、徐々に傷つける事も出来るが、救う事もできるという点を意識し、はじめちゃんを通じて積極的に周囲にコミットしはじめる。

初期のうつつちゃんが、何故普段下着しか付けていないのか。これは、本質的に社会にコミットしていない事を意味しているのかもしれない(プラス単なる視聴者サービスかもしれない)。徐々に普段から服を身につけるようになっていくのは、はじめちゃんとの交流で社会性を身につけていっている姿勢の表現かもしれない。


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by Trial-6 | 2013-08-28 10:32 | 雑記

キャラに関しての考察 (ガッチャマンクラウズ)

もうちょっと踏み込んで各キャラに関して考察してみる。

パイマン
パイマンは、組織に所属するキャラを突き詰めた感じ。
組織の命令に盲目的で、命令に対して疑問を抱くことも無い。組織が全てなので、上下関係にも厳しい。パイマンは、自分で決断が出来ないキャラクターであるという事が作中で示される。仲間がやられていても、命令が無ければ涙を呑んで助けにも行けないのだ。パイマンは、ベルクカッツェに対して無力であるばかりか、戦いに向かうことすらできない。

パイマンはどうしようもなく駄目で舐められキャラとして描かれているが、組織に属する物としての正義を体現している。組織においては、組織のコマに徹する事こそが正義である。勿論、組織の方針が正しいという前提があってこそだが。

しかし、今作においては、ガッチャマンの最高指導者にあたるJJロビンソンは、一方的に難解なメッセージを送ってくるのみである。理解出来ない高次元的なキャラであり、まともに会話が成立する相手では無い形で描かれている。

パイマンには、一方通行的にしか命令は降りてこない上に意図も明確では無いのだ。それ故に、滑稽な姿を晒すのだが、組織にいる以上、意図は分からないからと言って命令を無視する自由は無いのだ。末端感を出すことで組織人として無力さ、滑稽さが意図的に強調されたキャラだといえる。

ついでに言うなら、JJロビンソンがデカイ爺として描かれるのは、古くて巨大な組織そのもののメタファーではなかろうか。

枇々木丈
ジョーさんは、男のナルシズム的正義の体現者として描かれている。

ジョーさんは、男が憧れるタイプの大人の男として描かれている。しっかり仕事もしているし、職場(市役所)では仕事をスマートこなす優秀な男で、周囲からも高い評価を得ている。東大卒の高学歴で明らかに現在の職場では能力を持て余し気味である事も、描写されている。

敢えて市役所勤務なのは、本当にやりたいこと(正義の実現)は別にあるという事と、仕事においても一種の公共性(社会奉仕性)を求めているからだろう。

勤務時間中もイケメンなジョーさんは、勤務時間後においてもイケメンである。いかしたBARでギャルにもてまくりながらダーツで遊ぶのだ。かなり社会人のアコガレ!を詰め込んだキャラであるといえる。さらに勤務中はインテリメガネ男子系イケメン、勤務時間後はライダースーツ系のワイルド風イケメンという公私で2つの顔を使い分けている。

アコガレが凝縮された、ジョーさんは、ガッチャマンとしても格好良い。武装は高火力系。銃火器に、ロケットパンチまで使う。パシフィック・リム的な男のアコガレまで詰め込まれているのだ。ジョーさんは、橘清音が憧れるヒーローとして描かれている。男が憧れるヒーローの体現者なのだ。

そんなジョーさんは、ガッチャマンのメンバーではあるが基本的には一匹狼的スタイルである。雑魚には手を出さないし、強い敵には自分一人で立ち向かう。

そんなジョーさんではあるが、ベルク・カッツェには全く手が出ずにボコボコにされてしまう。ジョーさんの正義に宿る欺瞞はベルクカッツェに見抜かれ徹底的に攻められるのだ。

橘清音
清音くんは、マージナルな存在として描かれている。手帳のカラーがグレーなのも、もしかしたら関係しているのかもしれない。清音くんは、視聴者サイド寄りのキャラとして設計されたキャラクターだろう。男の子なので当然のごとくジョーさんに憧れているし、ガッチャマンの組織にも特に疑問は抱いていない。

しかし、一ノ瀬はじめちゃんとの出会いでこれまでの正義の在り方に疑問が生じ始めている。

ガッチャマンスーツにおける武装の刀はまさに作中でも触れられていたように清音というキャラクターの良くも悪くも一本気な所を表している。居合い斬りスタイルは、善悪をきっぱりと分けて考える清音の性格を暗示しているのだろう。正義感が強く、真面目だが、それはどこか視野の狭さにも繋がっている。

爾乃美家累
累くんの特徴としては、何故男の娘なのか?という所だ。

累くんがGALAXのLOADとして活動する時に女装して男の娘と化す事は、恐らく半陰陽的なベルク・カッツェと無関係では無いだろう。

累くんの正義は、悪人の断罪に留まらない包括的な社会的な正義の実現である。ヒーローの存在に頼らない市民による市民の為のより良い社会の実現を目指している。しかし、累くんの理想は性善説的な考え方に大きく依拠している。ヒーローとしての力であるクラウズに頼らざるを得ない場面は現実に存在し、市民は累くんが考えるほど性善説的なものでは無く親しい協力者にも裏切られ、その度に苦しんでいる。

累くんの理想的社会正義の実現の前には、人間が抱える性質的な悪が立ちはだかっているのだ。理想と現実(人間)がぶつかった時、累くんは理想を曲げるのか、現実(人間)の方を修正するのだろうか。

累くんが、女装する理由に関しては、累くんが自身が中性的な公平な存在である事を求めた結果では無いだろうかとも思える。また、ある意味この行為は、累くんが個人として正義を体現しようとしているのでは無く、GALAXのLOADというヒーローとして正義を体現しようとしていることの体現ともとれる。等身大を超えた行為に、欺瞞や矛盾の余地が生まれているのでは無いだろうか。

となると、最後は男の娘を卒業するのかもしれない。

ベルク・カッツェ
ベルク・カッツェが体現しているのは、純粋かつ象徴的な悪そのものだろう。

悪人としてでは無く、"悪"のメタファーとして捉える必要があると考える。悪というと、分かり難いかもしれないが、より作品内のテーマに照らして表現するなら、人類の愚かしさとも表現できる。原始性ともいえる。

それ故に、ベルク・カッツェは地球人をことさら原始人と煽るのでは無いだろうか。ベルク・カッツェにより惑星が滅ぼされたという部分も実質は、愚かしさにより滅んだと考えるべきだろう。

ベルク・カッツェとの対決は、自らの愚かさ、目を背けている欺瞞との対面でもある。それ故に肉体以上に精神がボロボロになるのだ。

ベルク・カッツェのコピー殺人に関しても、ナイフ通り魔や車の暴走のどちらのケースにおいても、全くゼロから引き起こしたとは言い難い状況だった。前者はナイフを所持していたし、後者はブチ切れていた。ベルク・カッツェの行った事は文字通り通り魔的犯行だ。"通り魔"とは、本来は瞬間的に通り過ぎて、それに出会った人に災害を与えるという魔物(通り悪魔)を意味している。"通り魔"的犯行とは、文字通り通り悪魔に憑依されたが如き犯行なのだ。ベルク・カッツェそのものである事に注目して欲しい。

表現的には単にベルク・カッツェがなりすまし犯罪を行ったように描写されているが、実際の所はむしろ通り魔事件をメタファー的に描いた物であると言える。ベルク・カッツェの抽象度を下げるための演出では無いだろうか。あまりに抽象度が上がってしまうと、キャラクターとしてベルク・カッツェを処理できない為だ。



とりあえずは、こんな所で。

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by Trial-6 | 2013-08-28 01:40 | 雑記

ヒーローと匿名性(ガッチャマンクラウズ)

ガッチャマンクラウズにおいて、主人公の一ノ瀬ちゃんが合理的必要性から何のためらいもなく素顔を晒してしまい、素性バレしてしまうというシーンがある。

ガッチャマンの掟としては、その活動は秘密であり、素性を晒すなど許されない。しかし、一ノ瀬ちゃんは何で駄目なのかという理由を問う。ガッチャマンにおけるリーダーのパイモンさんは結局の所、そういうルールだからとしか答えられず合理的な理由を説明出来なかったので上記のようにルールは無視されてしまったのだが。

一ノ瀬ちゃんは、ガッチャマンの一員として活動する以外に万人が相互扶助しあうクラウド的なヒーロー像を示すGALAXの会員としても活動する。一ノ瀬ちゃんは、GALAXのコミュニティにおいても特に匿名性を保とうとはしない。GALAXに関しては、一種のネット的なSNSなのでガッチャマンの様に特に匿名性が求められている訳ではない。

そして一ノ瀬ちゃんは、GALAXのメンバー達にも、どうして匿名でいるのかと問うシーンがある。GALAXでのコミュ活動において仲良く協力しあえるのだから、素性を開かして手を取り合えば、社会の他の場面においてももっと協力し合えるはずであると。しかし、実際は素性を明かすと、そこには所属する組織のシガラミなどがある。それが意識されてしまった結果、メンバーはギスギスしはじめ急に喧嘩も起きてしまう。

ここに、GALAX(ネットSNS)においても結局は匿名性というマスクが機能して初めて、人々がフラットに協力することが出来、ヒーロー性を発揮できているという構図が浮かび上がる。

実際の所、ガッチャマンもGALAXも大なり小なりの差はあるもののヒーローとしての特殊性に依存しているのだ。GALAXはヒーローという特殊性からの脱却を図ってデザインされているが、上記のように実はヒーロー性という呪縛から逃れられていない。

GALAXの創設者であり、ヒーローを否定する累くんのキャラにもそれは見ることができる。累くんは、GALAXのロードとして活動する時、常に女装を続けている男の娘なのだ。累くんは、ガッチャマンタイプの変身能力は持たないが、実質GALAXのリーダーとして活動する時に、男の娘の仮面を被っているのだ。外出時はもちろん、誰も見ていない部屋の中でも女装である。むしろ、寝る時くらいしか女装を解除しない徹底ぶりである。

ヒーローとしての、超法規性。超日常性を実質的に支えているのは、匿名性であると言っても過言では無いだろう。スーパーパワーがあろうとなかろうと、匿名性こそがヒーローとしての活動を支えている。匿名性が排除された時、日常におけるシガラミに囚われヒーローとしての活動は難しくなるのだ。

しかし、なぜヒーロー活動に匿名性が必要なのだろうか。それは、ある種の暴力が含まれるからでは無いだろうか。日常的なシガラミを飛び越えて行使されるパワーとしての"暴力"だ。そこには、暴力を行使した事に対する一種の気まずさが付きまとう。そうした反動を回避する為のマスクなのだ。

それでは、これらを否定する一ノ瀬ちゃんのヒーロー観とは何なのだろうか。それは、暴力を介さない正義である。暴力を行使しない故に、反動を恐れる必要も無いのだ。故に、マスクも不要である。人々が手を取り合ってシガラミと向き合い乗り越えて、短絡的な手段としての暴力に頼らず目的を達成する。それは常に自己の責任と決断が付きまとう過酷で困難な道でもある。

しかし、そうした内なる過酷さと真に向き合う強さこそ、本当の強さであり、ヒーローでは無いかと一ノ瀬ちゃんは示しているような気がするのである。
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ただそれ故に、一ノ瀬ちゃんのジョーカー性が際立っているんだよな。でもやるんだよという、善玉版のジョーカーだけど。ジョーカーさんを突きつけられてもヒーロー出来る強度を持ったキャラなので、少なくともノーラン版のバットマンよりは強いで。

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by Trial-6 | 2013-08-26 10:08 | 雑記

アニメ『ガッチャマン クラウズ #1~#7』 感想

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公式無料配信中だったので、ようやく視聴。

デザイン面のオサレさとは裏腹に、『ヒーロー』『正義』というテーマにガッツリ取り組んだ作品だった。個人的にはこれぞヒーロー作品!!って感じで観ていてゾクゾクした。めちゃくちゃ面白い!

キャラクターの造型が、人間っぽさ、ドラマっぽさ重視というよりも、テーマに切り込む為の(ストーリーの為の)デザインって感じなので人間ドラマを求める人にはいまいちピンと来ない所もあるのかな。

悪い奴が出てきて退治!って構図は殆ど無いんだよね。いつぞやの雪印事件みたいな経営者の欺瞞によってリリースされた雑菌牛乳が出荷されてしまった。さてどうする!とか、マスゴミのヘリ事故でロープウェイがピンチ!とか、トンネルで落盤事故が起こってしまった!とか。通り魔事件発生とか。社会において発生した問題に対してどうコミットするかという、ヒーローとしての在り方みたいな物が只管描かれる。それだけに、花火大会あるよ~みたいな話になると、まさかこれはガソリン大爆発事故くるの!?みたいな要らぬ心配をしてしまうので心臓に悪い。


主人公の一ノ瀬ちゃんのキャラが良い。何処までもフラットで、プラス思考だ。何かに付けてガッチャマンとしての先輩にあたる橘のヒーローとしての固定観念にズバズバと素直に突っ込んでいく。善いと悪いという構図に囚われがちな橘に対して、一ノ瀬はあらゆる事に対して、何か事情があったかもしれない、何か別のアプローチがあるかもしれないと語る。そこには、手段に囚われないフラットな目的達成へのアプローチだけがある。そうした一ノ瀬の姿に、橘も徐々に感化されてゆく。

一ノ瀬ちゃんは、偏見に囚われず直感的に問題の本質を見ぬく能力&割りきって何事も楽しんでしまえるセルフライフハック能力のせいで、いわゆるお花畑キャラに見えるんだよね。実際の所は限りなくクレバーだ。平成ライダーでいうとオーズの映司が割と近いかもしれない。あと、どグサレ文具野郎設定なのも良いじゃないか。

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もう一人の主人公格なのが、爾乃美家(にのみや)累くん。市民の一人一人が意識を高くし、相互に扶助しあう事こそが世界を良くすると考えている。その為に、ギャラックスというSNSを開発。実際に、ギャラックスは社会に普及して登録している会員同士を結びつけ情報を共有させそれぞれが技能を活かして協力しあえるシステムを実現。作中では、一部のロートルにはまだ普及していないものの、若い人を中心に広がっていてその理想も一定の効果を上げている。

累くん的には、全ての人間が意識高く生きる事で(外部の賞賛や権威などを求めず自発的な善意を実施する)ことで、社会はアップデートされると信じている。それ故に、選ばれた人間であるヒーローの存在とそれに頼る社会を否定するのだ。ついでにこの考え方は権威も否定している。

ただし、どうしても解決出来ない問題は発生してしまう。そんな時、累君はベルクカッツェから与えられたクラウズの力を使ってしまうのだ。クラウズは、累君が許可した人間(100人くらいの有志)にギャラックス越しで超絶劣化版ウルトラマンみたいなアバターを操る能力を与える。今のところは、人命救助にしかクラウズの出動を認可していない。しかし、やはりこうした力はどうしてもヒーローとしての意識を与えてしまう。そうした権威や名誉欲に駆られたメンバーは累くんに垢BANされるのだ。どうしてもクラウズの力(ヒーローとしての力であり、ベルクカッツェの力でもある)に頼らざるを得ない欺瞞に悩まされている。

ベルクカッツェは、累くんの欺瞞に気付いており、容姿コピー能力で無差別通り魔事件を起こしては社会を煽り続ける。ベルクカッツェには、所謂ダークナイトのジョーカー的な欺瞞に付け入るパワーがある。#7でガッチャマンもベルクカッツェと対決するが、全く手に負えない。唯一、同じくジョーカー的な性質を持つ一ノ瀬だけは、ベルクカッツエと対峙しても無事であった。そういう意味では、真の意味で一ノ瀬はジョーカーと対極的なヒーロー像として描かれているのかもしれない。


他のガッチャマンのメンバーを見ていこう。前述の橘は、所謂ヒーローという価値観に囚われた未熟な若者として描かれている。マナーやルールに五月蝿い。一種のヒーロー的ノブレス・オブリージュ精神も持っている。

その橘が憧れる先輩の丈さんは、所謂一匹狼系というかハードボイルド系のヒーローを体現しているように思える。何かを押し付ける事はしない、美学としてヒーロー道を生きるタイプだ。

緑の髪の毛のうつつちゃんは、まだ詳しい事は分からないが、一種のエネルギー体っぽく、生命力を吸ったり与えたりする能力を持っている。能力に悩み、社会から引きこもり、ヒーローとしての活動にのみ社会にコミットして自分の価値を見いだせる彼女のキャラはスーパーパワーに悩む、自己実現系のヒーローにも思える。

マスコットキャラで、一応リーダーらしい宇宙人のパイモンさんは、中管理職的なキャラクターだ。組織としては偉そうなのだが、自分で決断する事が出来ない。橘以上に、役割としてのヒーロー像に盲目的で、改めてその価値観を一ノ瀬ちゃんに問われると泡を吹いて倒れてしまう。

もう一人、オカマキャラがいるが、こいつはまだ良くわからない。能力的には大量破壊兵器系で変身を封印されている感じ。古い価値観における、はみ出し者としてのヒーローでも体現しているのだろうか。ベルクカッツェと被る感じなのに敢えてオカマキャラなのには理由はあると思うんだが。

因みに、累くんも男の娘キャラでボーダー感ある。

そんな感じ。ガッチャマンのメンバーにしても一人一人に旧来のヒーロー像が込められていて、この作品・・・・本気やな!?って感じ。問題提起としては、既にお腹いっぱいレベルなんだが、ここからどう転がして行くのかが気になるところ。

ベルクカッツェは、内紛を引き起こして星を滅ぼすエイリアンらしいので、最終目標としては分かるんだが、手段としてはどうなるんだろうか。ギャラックスと累くんを使って何かしようとしているのは間違い無いんだけど。不幸や欺瞞を食らってメシウマしているのは間違い無い。純粋に悪魔的な描写なので、ベルクカッツェを倒してお終いという感じにはならないとは思う。

一ノ瀬ちゃんがギャラックス自体も評価はしつつも、所詮はネット上の物。電源が切れればお終いとあくまで手段の一部としてしか観ていない所がポイントなんだろうか。目的と手段が入れ替わらない、システムも能力も権威もフラットな手段としてしか扱わない純度こそが、ベルクカッツェを潰し得る正義となり得るのかだろうか。そんな事を考えならが続きに期待。
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by trial-6 | 2013-08-26 02:45 | 作品・感想

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・信長の野望・創造(ゲーム)
・SimCity(ゲーム)
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